2014年02月23日(日) 
大規模災害が発生したとき、被災者の対応行動は4つの段階に分けられるという。最初の10時間は災害そのもののショック状態にあたる「失見当」。そこから100時間までの間に被災した人たち自らが生き延びていくための環境を構築する「被災地社会の成立」段階。そして1000時間まで「災害ユートピア」という、ほとんどのライフラインが止まり、道路が使えず、金を持っていても物が買えない状況で、被災者どうしの助け合いを基礎とする平等な社会が出現する。その後は「現実への回帰」が広がり、災害の記憶は思い出となって忘れられていく。近くはスマトラ沖地震や同津波災害、日本では新潟県中越地震による災害救援の際にも「震災ユートピア」が出現したことが報告されており、阪神淡路大震災では避難所となった多くの小学校でこの現象が体験されていた。

今のように、小学校に「緊急避難所」という看板があったわけではない。もちろん校庭の隅に「備蓄倉庫」などという大振りのプレハブが建ってもいない。しかし被災して住む家を無くした住民達は、近くの小学校に集まって被災地社会を作り上げた。この過程で普段からコミュニティ活動を活発に行っていた地域は、自然発生的にさまざまなリーダーが現れ、いち早く社会的秩序が成立していった。満足に供給されない食べ物や寒さをしのぐための毛布を分け合い、誰もが弱者に手を差しのべて生きていくために助け合うことで、避難所全体が充足感を感じる姿があちこちで見られた。直接被災地の中に入って、この現象を目の当たりにした情報ボランティアの中には、平常時に「災害ユートピア現象」を持続・継続的に再現する方法がないものかと考えるものが少なくなかった。「だれもが温かく信頼し合い、自然にさりげなく支え合う」関係を、不幸な場面ではなく普段のコミュニティに再生するには「学校」という場の持つ空間の履歴が効果的であるということが、彼らははっきり見えてきているように感じていた。

しかし、突然「学校教育の場」から「避難生活の場」に転換を迫られた当時の学校には、それを支える基本的なインフラがほとんど存在しなかった。通信インフラもそのひとつで、職員室に引き込まれている回線は、電話用とファックス用のわずか2回線。それらも学校の連絡用として利用されていて、被災者やボランティアに開放された事例は多くなかった。携帯電話による通信も普及していない時代、避難所を駆けずり回って必要な救援物資を調べた情報ボランティアは、その色から「グレ電」と呼ばれた外部回線コネクタのついたデジタル電話ボックスに並んで、情報を外部に発信するしか方法がなかった。

折しも米国でNetday運動が始まった。シリコンバレーの経営者達が口火をきって、ほとんど整備されていない公立学校のインターネット接続を、保護者・学校関係や技術ボランティアが協力して推進しようというプログラムだった。「Smart School Project」と呼ばれたNPO主導のシリコンバレー地域のNetdayは、1996年4月から僅か19ヶ月間に92%の学校の75%の教室でインターネットが利用できる環境を作り上げた。当時のクリントン政権は、全米規模にNetdayを拡大させることを推奨し、1999年までに89%の学校を地域ボランティアの手で整備することに成功した。この動きを日本に移入して、学校の情報環境整備とともに薄れつつある学校現場と地域住民による協働作業を仕掛けて、災害に強いコミュニティ構築につなごうという活動が、阪神淡路大震災を経験した兵庫県で始まった。

閲覧数1,208 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/02/23 08:16
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